推しをお終いにした話





推しをお終いにしました。

二年達成まで二週間、そこで最後におしまいにしようとおもいまして。配信でふと我にかえって、終焉を決めました。






わたしの推しについてお話します。


私の推しはとても素晴らしい方でした。

あとにも先にも、彼以上のアイドルは現れないと思います。


自分の夢のために、彼は努力した人でした。オタクという売りと、たまたま自分が引っかかった世界がアイドルという場所で、本人は芸能の世界で生きていけるならと、この道が軌道に乗ったことをきっかけに今この場所で話題のアイドルとして地に足をつけています。



私が彼に出会ったのはちょうど今頃、二年前のこの時期です。その前から、ツイッターのプロモーションで流れてきた地下アイドルに、馬鹿にする意味も込めて密かに興味を寄せていました。腐女子の名残というのもあって、どこかでアイドルがいちゃつくのに湧いてた、というのもあるでしょう。


たまたま、現場が近くに来るということだったのでそれに向けてダイエットしたり、ケアしたり、いろいろなことを頑張り始めました。



そして去年のその日、わたしは仕事で結局わずか10分しか演目を見れませんでした。アンコールの一曲の終わり。それしかみてません。


でも、その僅かな時間で見た推しは、動画の中で見たキラキラしたアイドルそのものでした。



私が、彼を選んだのは彼の踊る姿です。

動画の中で、世界一楽しそうに、幸せそうに、生き生きとクォリティの高いダンスをする彼が大好きでした。

その彼が、たった数分の演目で目の前にいました。


その数分が、私の世界を動かしました。



その日私は彼と初めて『会い』ました。

接触ですね。お話をさせていただきました。



目の前にいた彼は本当に普通の男性でした。すごく話し慣れた、初めて行った人にとても優しい人でした。柔らかくて、ニコニコ笑ってくれることに私はとっても安心して、頑張ってきてみてよかったなあと心底おもいました。

このときまだ、とっても好き、とか、もっと!とかの気持ちはなかったです。



そして、気が向いて滋賀と京都の遠征に行きました。そこで所謂、接触に『積む』ことにしました。あのやさしいままの推しを期待してましたから。



そして接触の時間、もちろん覚えてはいませんでしたが、何回も何分も話しているうちに、推しとの会話のキャッチボールに違和感を感じて、楽しくない、と素直に思う自分が生まれました。



その瞬間ここまで来て何をしてるんだろう、ととてつもなく悲しくなったこと、今でも覚えています。

でもこのときの私はまだきちんとわかっていました。

いざ公演が始まると、踊っている推しにどんどん魅了されていきました。悲しくなったことなんてもう忘れていました。わたしは踊っている彼を推している、その自覚があって、その楽しさをわかっていました。

だから、その次の日の接触ももちろんたのしかったし、その後からの接触も、違和感をおぼえながら楽しく過ごしていけました。



そして、推しの生誕祭で、名前を初めて呼ばれました。どれほど幸せだったか、ずっと嬉しくて、人生で数が少ない嬉し泣きをしました。とっても嬉しかったです。推しの記憶に自分がいることが、推しが私を認めてくれたことが、これまでにないくらいとっても嬉しかった。彼の誕生日に、それを伝えてもらえる自分は本当に幸せだな、と感じました。本当に幸せ者だったんです。ちゃんと、ちゃんとわかってたんです。



次のツアーで、推しは何気ない会話の中に突然『大好き』と伝えてくれました。私の名前と、大好きと。私のことを大好きという言葉で彼が伝えてくれたこと、一生これを上回ることのない幸せだったと今でも思います。わたしのことをちゃんと大事にしてくれていた、そんな過去の事実が間違いなくありました。でもきっと、これを皮切りに私はおかしくなってしまったんだとおもいます。



オタクともなかなかうまく関係を築けない私は、あの時から大好きの言葉に縛り付けられました。

私以外に大好きな人がいたら、私は勝てないと思うようになりました。中でも、推し被りのマウントや何気ない一言により傷つきやすくなりました。でもなんのけないことなのに、傷つく私を周りは被害妄想と言いました。いいことがあっても、わたしがこんないいことあるわけないと、悪いことがあれば私なんか、私だから、もう死のう、なんてネガティブになっていきました。



そして、ある日突然わたしの名前は、SNSから消えました。



ラインやDM、他の繋がってる人たちから心配の声が届きました。こんなに愛されていたのに、わたしは推しに愛されない自分は意味がない、オタクがどんなに心配したって、どうせ建前。心配してる自分を推しに見てもらいたいだけ、私のことを心底心配してるわけではない。


今でもこの気持ちはのこっていて、でも中には本当に心配してくれていた子たちがきちんといました。私はその子達の気持ちを踏みにじったこと、私なんかにその余念を与えてくれた優しさを、今でもどう償えばいいかわかりません。



そして、私はSNS復帰より前に突然現場に復帰しました。そのときに、私の姿を見て泣いてくれたヲタクたちがいました。申し訳無さで何度謝って、何度困らせて、なんとお礼を言ったかわかりません。さり気なく変わらず声をかけてくれた子もいました。みんなにこんなに、愛されておたくしていたんだなあと、本当によくわかる瞬間でした。



そして現場復帰をして、レスや目線も人並みに申し訳な程度貰い、接触も違和感を感じながらもオタクたちのおかげで私はしばらくまたオタクを続け、楽しむ日々。そんな日々が続く、そう思った矢先でした。



8月某日、推しとのツーショ会、いつもと変わらないそんなツーショ会、おしのことだいすきで、でもいつもの違和感のおかげで私は自信がなかった。

推しはその日、割と上機嫌だなと合う前に思った。

ブースの外まで聞こえる笑い声、お迎えのときの推しの感動を表す声、私の前まで見かけた人はみんな楽しそうに、嬉しそうにブースから笑顔で出てくる。


もしかしたら、今日は違和感なく楽しめるかもしれない。私は少し楽しみで、いつもよりすこし期待をしていました。






でも現実は甘くありませんでした。


詳しいことはもう話しません。


ただ、私は彼のお客としてあまり喜ぶ客では、なかったのかもしれません。


わたしはいつもいるオタクだと思っていたのかもしれません。


てきとうでもきっと、わたしは好きでいる、少しくらい、なんて気持ちもあったのか。


それとも、本当に嫌われる何があったのか。


私はいらなかったお客なのか。


ブスだから、デブだからか。


頑張る必要のない、ヲタクだからか。


私との時間は無駄だったからか。




きっと、どれにせよ、わたしのことが嫌いなんだ。



私の後半一年間、昨日までの気持ちは全てこれにつきます。




自信がなかった中で、私はトドメを刺された気持ちでした。

でも、私は彼しか推したことがなくて、彼しか接触に行ったこともなくて、そこからどうしていいかわからず立ちすくんでいました。


グループ内で複数の認知をもらってる人もいて、すきなひともいて、なんて、そんな贅沢なオタクをしてこなかったもので、私は彼から干されたら、このグループで生きていく楽しさを失ってしまうんですよ。


だから、わたしは悲しさや辛さや不安や自身のなさを深めていきました。それでも、私の唯一の娯楽で唯一の楽しみだと譲らずに、なんとかオタクとしての息も絶え絶えに推しました。



生誕祭も行きました。ツアーも減らしたけど行きました。ツーショも行きました。対バンもいきました。好きだと伝えました。どうしたらいいかも聞きました。優しく応援していきたいことも、前向きなことも、出会えてよかったことも全部全部悔いのないように伝えました。




でも、結局彼は私の気持ちを知らないままでした。




私がどれだけ好きだと伝えても、どれだけ応援してると伝えても、何もわかってはくれませんでした。




応援することは、申し訳ないですがかんたんではないんです。



接触アイドルなんて、接触がないと在宅なんてオタクとして認められない世界です。

だから、遠征費をかけて、可愛くなろうと努力して、高いチケットを積んで接触していきました。



彼の写真集も、リリイベの日はいけなくて、みんなはリリイベの接触のために買う人が多くて、私はいけなくて。


でも彼がオリコンに入りたいならと、リリイベ行く人より買いました。なのに、私は接触にいけません。彼に買ったことも、応援していたことももちろん伝わりません。


お金だけがなくなるんです。



彼に伝えたって、感謝もされませんでした。当たり前のように、そうなんだ、と返されただけです。わたしは、そうすることが、当たり前のオタクだと思われていたのでしょうか?それができることが前提なのでしょうか?




申し訳ないですが、わたしは無償の愛で推しから何も帰ってこないまま、傷を深められながら、溝をつくりながら、それでも笑顔で大好きでいられるほど、強いオタクではありませんでした。




遠征してることも、買うことも、ライブ行くことも、彼のためにする全てはたしかに私が彼のために勝手にやったことです。

試写会の完売にも手を貸しました。握手券を枯らしました。辛いときもありました。でも彼が大きくなることが嬉しくて寂しくてそれでも頑張ってあげたかった。



だけど、彼はそれを知らないまま。

知っても、私がすることとして当たり前で、感謝すらもされなかった。



私のことを好きだった彼は、どんな私が好きだったのでしょうか。



私の好きだった彼は、こんな彼だったのでじうか。




わたしは、いつからか、踊っていた彼を忘れてしまいました。




あんなに好きだった踊ってる彼より、対一に向いている自分への対応の彼しか見えなくなっていました。

だからきっと、その違和感が明白となって、溢れ出て、戻れないところまで来てしまいました。



私が好きになったパフォーマーとしての彼を、私はもう忘れてしまいました。



今でも彼の踊りはずば抜けてすごい、綺麗だ、と思います。彼以上のダンサーは私の中では未だに現れていません。



だけど、その彼よりも対自分の彼しか、今はもう思い出せません。だから、戻れないんです。彼のダンスが好きなだけだったはずが、私は自分で首絞めて、彼との溝を掘り下げてしまって、彼と私の関係というただに一つの柵をまえに、今ここにいます。



ここは、地獄です。




今、彼の後輩を新しく応援しようとしている時です。ですがきっと、後輩のことを彼以上に応援しようとも、好きになることもきっとありません。

ただ、彼になかった『ありがとう』という一言を言ってくれる、その肯定感を感じられるからというだけです。



正直今、所謂幸せです。オタクとして。



でもその幸せは、本当は推しと感じたかったんです。


その楽しさを推しとの分かち合いたかったんです。



でも、もうきっと、叶えられません。

自分から落ちた地獄を誰が救い出してくれるのでしょう?そんな甘い世界なんかありません。自分で落ちたなら、責任を持って地獄で償うしかないんですよね。





冒頭でなんども、わかっていた、知っていたといったことがあります。

それはこうなる前、まだ私が彼を疑わず、大好きでいられたときに、彼に少なくともヲタクとしてみんなと同じように、わたしを大切にしてくれていたことです。そこで、不安になるんです。もしかしたら、やっぱり私の被害妄想なのかもしれないと。




その真実は未だにわかりません。

でもわたしは、それでも迷惑だとわかっていながら未だに彼のことを好きです。

本当は、まだ彼のオタクをしながら、笑って泣いて幸せでいたかった。



彼がくれた優しさを踏みにじったのは、私です。


それでも私は、彼が幸せになることをなんだかんだしっかりと願っていました。こんな私でも。

その願いを踏みにじったのは、自分でしょうか?彼でしょうか?それとも、他の誰かでしょうか?





答えが見えない今、わたしはどうしたらいいかわからないんです。



でも、こんな気持ちは捨ててしまいたいんです。

二週間後、皮肉にも二年の記念日というものでしょうか、彼の現場があります。未練がましいでしょうか?少し期待してる馬鹿な自分がいるんです。




なぜって













本当は、ずっと、いまでも、私はそんな彼に恋をしているからです。




彼はまた、私を惚れさせてくれるでしょうか?それとも、諦めているでしょうか?また惚れさせてくれるなら、今度は私を、幸せにしてくださいね。




私はもうあなたを幸せになってほしいと願うことも許されなくなりました。貴方からの希望です。








でもわがままを言わせてください。



私達の最後、もう一度だけ、笑いあいたいな。




今日も別れを数えながら、あなたの事が大好きです。



ジャニーズヲタクの終焉







一ヶ月前ほどに、10年選手をぶっちぎったジャニヲタの歴史に終止符を打つことに。




そろもそもわたしのヲタクの歴史とはどんなものだったのか思い出がてらに振り返る。




彼らとの出会いは私が11歳ほどの頃、小学館刊行の今は無き小学3年生の表紙になっていたのは、今や国民的スーパーアイドルの嵐であった。


もちろん当時は無名、だったのだが、ちょうどごくせんファーストシーズンがドラマで流れていたため、松本潤の特集も組まれてるなど小学館のくせにアイドルページをふんだんに使ってくれていた。



真面目で記事を隅から隅まで読むエリート小学生打ってた私は、その記事と写真、そして姉の影響で見てたごくせんとのリンクが見事に繋がり、あっけなく松本潤の虜になる。



ちなみに当時の好きな人はセーラームーンスターズのスーパーアイドルのセンター、星野光なのだが、これは又の機会に詳しく語りたい。



その後姉に連れられ、嵐のコンサートに行くのだが今じゃ考えられないのが、コンサート後半、私の姉は隣の空席に荷物を置いた。

なんと、当時の嵐はぱっと見大勢の集客なのだが、ぽつ、ぽつと空席があったわけだ。

もちろん遅刻とかではなく、最後まで空席だった。

そこだけではなく、ちらほら見えていた空席は荷物置きと化していた。


余談だが、通学路で嵐の話をした時に、『なにそれ、だれ?それより天てれのが好き』と語っていた友達は今は立派な嵐ヲタとなりました。



そして時は流れ、姉が友達からもらったというVHSのダビング(笑)を見た際に、K.K.kityというアイドルに出会った。それがこれからの自担になる小山慶一郎との出会いである。



まあそれより前に山下智久が好きだったので当時は山P一生愛してる💗の小学生だった。


そして更に時は流れ、NEWSとしてやましたと小山慶一郎がデビューを果たし、校内放送でがんがんNEWSを流す放送委員のワタシ。



その直後に永遠の新規として名高い伝説のごくせんセカンドシーズンが始まったのだ。ここでついに同類が増える増える。


そして喧嘩になる。



虚言癖がある私は母親が編集長だの、カメラマンだの、マネージャー仲がいいなどアリもしないクソみたいな嘘をつきまくる。これが小学生の恐ろしさだ。作文では夢小説を書いた。


ココらへんで確か、内、草野の騒動があり、呆然とバレーでいないメンバーに泣きながらクラスメイトと長電話していた。もちろんそのことも不仲になり喧嘩してた。


そして不仲になっていく友達が増える中、いまのすずめの二人と決定的に仲良くなったのが中学入学の頃。

NEWSは6人での再出発をしていた。


中学2年生で小山慶一郎に対して完全に担降りをした。ネバエンのdreamsをほぼ目の前でみてしまい、この人が私の探し求めてた人だと謎の錯覚を起こしていた。


挙句、本気愛を貫いていたヲタクの私はこの時すでに美容意識に対するピークを迎えており、ほんきあいぱわーで62kgあった体重を45kgまで落とすスーパーダイエットをしていた。背が低いため痩せてるようには見えないものの、デブではなくなっていた。



そして中3でクラスは違えどすずめは使われていない階段の踊り場で嵐ヲタのワンマンライブを開催し、参戦するという楽しいライフを送った。




しかし、高校で私だけ一人バカ高校に進学したので友達がいなくなる。そのときは嵐ヲタに誘われたキスマイにいき、北山のファンサで闇堕ちしていた。


しかもなぜか濵田崇裕にも闇堕ちしてエイトのコンサートにいくも濱田不在だった。当時浜中好きだったすずめのメンバーとなぜ下が来て上が来ない???と話を半笑いでしていたとおもう。やけくそでケンタッキーを食べていた。





そしてこの時点で体重は見事リバウンドした。





それから大学に進学のさい、NEWSは錦戸山下の脱退から振りきり、二回の復活コンサートをしていた。とてつもない号泣、そして出会いに感動した。この時にNEWSは何がなんでも応援していこうと決めた。


同時に滝沢ソロコンで渡辺翔太に降りるも、そこらへんで関西担の友達に出会い、関ジュの舞台挨拶、そして全国ツアーに同行させて頂く機会が増えていた。



その全国ツアーで、わたしの人生を狂わせたのが今や人気アイドルとなったジャニーズWEST小瀧望である。



全国ツアー後、すでに申し込みが終わっていたANOTHERへ殴りこみ、その後関ジュの小滝の現場には無理やり全てに足を運ぶことになる。



小瀧望のことが世界一可愛くて、かっこよくて、ほかの担当にはファンサを求めて幸せになりたかった自分が、初めて幸せになってほしいという目線で見ていたのが彼である。



しかし2013クリパで完全にデビューのフラグが立っていた。ソロコンがおこなわれ、ソロコンとスペシャル公演の様子がおやおや状態だったのだ。


案の定1/1にはジャニーズWEST4(笑)としてデビューを発表された。




生理がかぶり挙げ句の果てカウコン見てないで友達から聞いた事実に泣きながらタバコを一晩で二箱開け酒を煽る病みっぷり(笑)



その後のなにわ侍で七人デビューを果たし、ツイン厨だった私は行く予定だった公演にプラスして、即刻チケットを買い取り、ツインさいごう(泣)(泣)(泣)と日生劇場で号泣して再び愛を届けてた(笑)


しかし、実習と卒論に追われ現場になかなかいけなくなり、台風ndreamerあたりから遠征はなくなっていった。




その実習中、朝起きたら吐気と頭痛が止まらず起き上がれない事件があり、バスに乗ると三回降りるはめにるほどの発作に駆られることになった。


泣きながら頭を下げ実習を中止したところ、難しい病名がついたがざっくり簡単にうと不安症とやらにかかったらしい。パニック障害一個手前。


そんな時にNEWSのWhite公演があり、親にも迷惑をかけたし、そんなの行ける気分でもないからいかない、友だちに行ってチケット売ってもらう、と言っていた。



親からしたら見ていられなかったらしく、ある日服を買ってくれた。私が好きなかたちのワンピースを買って、これ着て、行っておいでって言われて号泣した。私がジャニーズでしか動かないことを知ってた親が背中を押してくれた。



そしてWhite札幌、運命の3月29日、ゆうかが与えてくれた神の席で小山慶一郎と初めてのオンリー(笑)を頂いて、ああ、もうダメだとその場で泣き崩れる。(笑)そして小山慶一郎担当に返り咲く。



その後の回復は早い早い、すぐに大阪と東京の手配をしてホワイトツアーへ参戦し気持ちも上々に戻った(笑)



そして時が立ち、就職してからは札幌公演しか行くことがなくなった。二年め、NEVERLANDへ行こうとチケットと路線を確保しかけたその時、わたしは電撃が走る運命的な出会いにより、ヲタクとしてのジャンルを引っ越すことに決めた。





ここまでがわたしのジャニーズ遍歴。




なかなか浅いけど私にとっては青春のすべてでした。





今はNEWSもまた考えさせられるところもあり、そんな時に今の沼に出会ったのは運命だったのかなあと思います。



ちょうどこのタイミングでフルスイングが流れてくるので感慨に浸りますが、わたしはNEWSが今でも好きだし、とても嫌悪するところも含めて仕方がないとことして受け入れようとは思ってます。



そして次の沼はまたに彼らにはない魅力があります。これからもNEWSの現場は行くけども、いまは今の沼を大切に生きていきます。




我が人生はオタクしないと生きていけないようだね(笑)





小山慶一郎さんと、小瀧望さんに頂いた様々な感動と勇気は今の沼ではもう得られないかけがえのないものだから、本当に感謝が止まらない。



好きになってよかったし、これからも大好きです!





これからまたヲタクに戻ることだってありえるけれど、そのときは笑い飛ばしましょう。







それでは。